前回は、1978年の結婚から、ガソリンスタンドを現金・安売りで回していた忙しい日々までをお話ししました。
前回の記事
お見合いから2ヶ月で結婚、翌年7月には開業が決まっていた
順調に見えた矢先、夫が「もう一店舗増やしたい」と動き出したところで、思わぬ壁にぶつかります。
出店を増やすには、地域の石油組合に諮る必要がありました。
そこで夫が話を持っていったところ、周囲のガソリンを扱う同業者が、そろって反対したのです。
「あの会社がもっと増えたら困る」 「あんな安売りをするところを増やすのは、絶対反対」
こうして、二店舗目は出せなくなりました。
安売りで有名になっていたことは、事実です。日経新聞に載ったこともありました。「関西から安売りが始まった」という趣旨の記事で、うちの看板が写真つきで、それはもう綺麗に写っていたのです。無茶苦茶なことをやる人だと思いましたが、それをやったのは夫でした。
そして夫は、邪魔をされたり、ライバルが出てくると燃え上がるタイプです。
「増やされへんのやったら、もう他のことするわ」
——この一言が、会社の運命を変えました。
夫が目をつけたのが、通信でした。
当時はまだ、携帯電話などありません。流行っていたのはポケットベルです。そして、もうひとつの主役が電話の加入権でした。
いまの方には想像しにくいと思いますが、当時、家に電話をつけるには、こうするしかなかったのです。
NTTの窓口へ行く。「電話をつけたい」と言う。すると、79,800円の加入権を買わされる。それから電話番号を決めてもらい、工事に来てもらう——それしか道がありませんでした。
通信とは、そういう世界だったのです。
とくに困るのが、学生さんでした。大学に進んで親元を離れれば、連絡手段がありません。かといって、79,800円は簡単に出せる額ではない。実際には、親御さんが息子さんや娘さんのために、掃除機や冷蔵庫、洗濯機と一緒に電話も揃えてあげる——電話は、家電と同じ扱いだったのです。
そこで私たちが始めたのが、加入権のレンタルでした。
私たちは加入権をいくつか持っていました。それを、買うのではなく貸し出す。学生さんは月2,500円、社会人は月2,900円。6ヶ月分を前払いでいただき、電話番号の取得や工事の手配まで、業務代行を一手に引き受けました。
そして販路は、家電量販店でした。ひとり暮らしを始める人が家電を買いに来る、まさにその場で、電話もセットで申し込める。取り次ぎを私たちが担ったのです。
これが、爆発的に売れました。
3月4月、春はもう、めちゃめちゃ忙しかった。新生活のシーズンですから、当然です。
種になったアイデアは、名古屋にありました。そういう商売をしているところがあると知って、夫が「面白いな」と言い、「大阪でやろう」と決めた。それが、私たちの通信会社の始まりです。
そうしているうちに、いよいよ携帯電話が登場します。
日本で最初に始まったのは、大阪でした。ただし、いまの姿とはまったく違います。最初は自動車電話——車の中に大きな機械を取り付ける工事をして、運転しながら受話器で話す。そういうものでした。
やがて持ち歩ける型が出てきます。いまの携帯の原型といえば原型ですが、はるかに大きなものでした。
ここでもまた、価格が壁になりました。当時、携帯電話を持つには保証金が10万円、20万円と必要だったのです。高すぎて、簡単には手が出ません。
ですから、また同じことをしました。
「それなら、レンタルにしよう」
加入権のレンタルで始まった会社が、携帯電話のレンタルへ。私たちは、通信のレンタルという一本の道を歩いていったのです。
NTT(のちのNTTドコモ)に対抗して、関西で初めて生まれたのが関西セルラー。のちにKDDI(今のau)の母体になった会社です。その後、キャリアは三つに増えました。
私たちは、そのどれもの取り次ぎをしました。
そのころには保証金の制度がなくなり、キャリア各社は端末を売り切る形に変わりました。そして街には、携帯ショップが次々にできていきます。
ドコモショップのように、一社の端末だけを扱う専売店もありました。けれど私たちは、併売店をメインにしました。すべてのキャリアの携帯電話を扱うお店です。
理由は、夫の主義でした。
「お客さんが、それぞれの携帯の中から選んで買えるようにする」
各社が特徴を打ち出していた時代です。だからこそ、選べる場所であることに意味がある——そういう考え方でした。
ショップはどんどん増え、携帯電話の数字は爆発的に伸びていきました。
そして、この伸びの先で、私たちはひとつの決断に向かうことになります。
なぜ私たちが上場を目指したのか。その理由は、売上や規模の話ではありませんでした。次回、いちばんお伝えしたい話をさせてください。
次回|【第3回】「これ、あと誰が引き継ぐの?」——私たちが上場を目指した本当の理由